定期健診の日の朝 [体調]
3月上旬に、婦人腫瘍科の定期検診がありました。
今回は血液検査&画像検査でした。
検査結果を聞くための外来日、朝からなんだかイライラするのです。
落ち着かないのです。
突然。
意外なくらい。
やっぱり自分は生きたいんだと再認識したような次第です。
リンパ節に転移していたことが判ったときは、はっきり死の存在を感じました。
でも、今はこうやって日常生活に戻ってどっぷり浸かってしまっています。普段ストレスを感じるのは、主に仕事で課題にぶつかったとき、手術の合併症のことで煩わしく感じるときでしょうか。
そして術後の期間が長くなるにつれて再発の可能性はだんだん減っているのではないかと、期待がつぼみのようにふくらんできています。
それだけに、検査結果を聞くにあたって、前回以上に不安になったようです。
そんな自己分析をしながら通勤している途中に、1つのアイデアが浮かびました。
今のわたしに神様が試練を与えるとしたら、再発より仕事や人生の課題を克服することなんじゃないだろうか。
妥当かつ建設的なアイデアのような気がしました。
次に頭に浮かんで来たのは、一年前にテレビで見た津波の光景でした。
震災。
あれほどの悲劇が、多くの人の死が、必要な試練であるとは思えません。
人は、困難に意味を見つけようとするけれど、それはときに前向きなとらえ方ではあるのだけど。
やっぱりこの世の中、何が起こるのかわからないし、何が起こってもおかしくないんだし、止めようがないんだ、と思いました。
人にできるのは、まずそれを受け止めること。そのとき自分にできる精一杯のことをすること。
再発は来る時は来る、心配したって仕方がない。どっちに転んでも、その状況を受け止めて生きるしかないのです。
少しイライラが収まってきました。
「やっぱり」というのは、これまでにも何度も考えたことだからです。
一番初めにこういうことを考えたのは、化学療法の治療中だったでしょうか。
父に頼んで般若心経についてのわかりやすい本を紹介してと頼むと、『般若心経入門』(松原泰道著)を買ってくれました。
もし死ぬことになっても、それを拒絶しようとしてもがき苦しんで死にたくなかったのです。
神頼みではなく、わたしが求めたのは哲学としての仏教でした。
「空」という考えについてまとまって書かれたものを初めて読みました。
なんとなくこういうものという理解がわたしの中にあります。
だた人に実感を伴って説明できるほどのものがないので、やめておきますね^^ゞ。
『4章 生と死』の中の一節を紹介します。
生も死も人間の自由や選択の外にあって、どうにもならぬものだから、どうにもならぬものは、どうにもならぬと素手で受けとって、腹をすえ、悪くいうなら“居直って”、かけがえのない、たった一度の人生を、たった一人しかない自分を、今日という日は二度ないのだと、ひたすらに生かされ、生きてゆくのが永遠に生きることなのです。
生死がないのでなく、生死がありながらも生死に引きずりまわされぬ生き方が不生不滅の生き方です。
そうだよな、そうだよな、と思うのです。ただ、そう思っても精神修養ができていないわたしは、やっぱり次回も落ち着かない気分になりそうなのです。
ここまで考えて、一度文章を寝かしていました。
そして、昨夜ふと頭に浮かんだ考え。
定期健診を機会に、自分は生きたいんだってことを再確認するのも悪くないな。
「ゼロになったからだ」が、また生気で満たされて、しばらくは生に邁進していける…そんなイメージです。
次回の検診をどんな気分で迎えられるか、ちょっと楽しみになってきました^^
コメント 0